233. スキー場での嫌な思い出
(2020年2月16日作成)
この記事書いたのが一年以上前なんですよね笑笑
若干の季節遅れの記事です。
2015年3月14〜15日、中学受験が終わりお遊びモードだった僕は家族で一泊二日でガーラ湯沢にスキーをしに行っていた。
楽しい思い出になるはずだった………
一日目の夕方(確かナイター直前だったような…)、今日最後ということで滑っていた。
臨界コース→合流ポイント
で、滑っていた。なんなく僕は大回りで滑っていた。(大回りなので前方向には小回りほど進まない)
不明「危ない!!!」
そんな声が後ろから僕に向けて話しかけられた気がしたので、後ろに振り返った瞬間だった。
大学生らしい下手くそ超初心者スノーボーダーが板を僕に向けて突っ込んできたのだ(おそらく止まり方がわからなかったから突進みたいな形になった?)
*そこそこのスピードだった気がする
一瞬の出来事だったので、避ける暇もなくスノーボードが僕の顔面に直撃しそのまま僕はスキーコースを転がっていった。
立ち上がった時、当てた人が駆け寄ってきて「ごめんなさい。大丈夫ですか?」っと話しかけてきた。
その時直感的に痛みがあまりなかったので反射神経的に「大丈夫です」っと答えた。
医療費とか払いたくなかったのかその人はそそくさと逃げてしまった。(後でこれが……)
その後、遅れて親がきたがその時も痛みがなかったのでそのままゲレンデまで降りることにした。
しかし
ゲレンデに着いた時、おでこがこれ以上ないほど痛かった。痛さのあまりに倒れた(意識一瞬失ったのかな?)。少し起き上がった時、雪が赤く染まった。そう、血です。親がびっくりして、帽子をめくりあげるとおでこにすごく深い切り傷があったのです。結果的に後数センチ深かったら危なかったと後日分かりました。
ところが、
なんと加害者はさっき流してしまったのです(ちょっとひどい言い方ですが)。そして、その事故現場を親は見てない。つまり、この事故について知っているのは僕だけでした。しかし、親が知らなかったので、かなり事故は有耶無耶に終わってしまいました。
両親、担任の先生に案の定怒られる
丁度一週間後の2015年3月20日が小学校の卒業式でした。そう、つまり卒業写真に僕のおでこの部分に切り傷が入ることになってしまったのです(そこそこ深い傷だったので、今でも若干あります。そして、傷の場所はそこそこ目立つ場所だった)。その事を担任の先生に報告した両親は相当怒られたそうです。そうですよね、両親の責任になっちゃうんですよね、、、
卒業写真
つい先日、小学校の卒業アルバムを見返す機会がありました。やはり、そこには切り傷が、、、
今思うと、確かに嫌な傷ですね笑笑
人生の一つの思い出としてよく覚えています
こんなことあったなぁ……っと
それでは……
232. パソコン、ムズカシイ…
ム・ズ・カ・シ・イ
パソコン
、
今までまともに使ってこなかったから。
PDF???
どうやんの?それ???
困るわ!!!
情報かき集めんと………
新歓!?寮!?対面かオンライン!?課題は!?何!?………
五月病になりそうだ笑笑
231. クローズアップ・「日本プロ野球応援の父 岡田正泰」 (再掲) part23
参照元→8. 日本プロ野球応援の父 岡田正泰 - U8Sefia
8. 日本プロ野球応援の父 岡田正泰 (2019年11月20日投稿)
鳴り物の応援歌。現代プロ野球において当たり前になった鳴り物を使った応援。その基礎を作った男がいた。
その男は
岡田正泰さんです。
(ウィキペディアより)
彼はかつて約50年以上に渡ってヤクルトの応援団長を勤められた方です。
1953年のある日まだ現代プロ野球が発足されたばかりの頃、岡田さんはヤクルトと巨人の試合に行った。
しかし試合は巨人が圧勝
さらに当時鳴り物応援などあるはずがなくただ野次を言い合うようなものだった。
実際その試合、巨人ファンの怒涛の野次そしてヤクルトの圧倒的ファンの少なさによりヤクルトホームにもかかわらずヤクルトにとって完全アウェーだったらしい。
あまりの酷さから次回野球観戦にいく時は秩序だった応援が必要だと考えた岡田は次回観戦時家庭のフライパンを持っていき鳴らしていたらしい。当時の人にとってみれば奇妙そのものであった。
しかし次第に鳴り物を持ってくる人が増え段々と秩序だった応援が出来上がっていた。これがプロ野球の応援の際トランペットなどの鳴り物を使うきっかけとなった。
だが、岡田は今日限り見にくる人でも楽しめるように考えていた。
日常にあるもの 安価なもの 必需品であるもの
考えに考えた結果行き着いた先は
そう
傘
です
これがヤクルトの傘の始まりです。
とはいってもグッズで売ってる傘ではなく当時はビニール傘だったらしい。
そう活動していくうちにファンの間 選手の間 さらには監督まで名が知れ渡った。
そして監督が変わったら必ず岡田さんのところに挨拶に行くのがいつのまにか恒例となった。
そして1978年ヤクルト初優勝時、普通ではありえないことが起こった。
それは
日本一の時にもらえる優勝トロフィーを監督とともに持ち上げグランドを一周したのだ
このようにしてヤクルトといえばファンと選手が一体となっているチームとなったのだ。
1980年代の低迷期
1990年代の黄金期
これをも一戦一戦応援し続けて乗り越えて2002年に永眠なさりました。
2013年に応援し始めた僕にとって直接の接点はありませんが、ヤクルトの基礎を作った人であり偉大だと思いました。
ちなみに試合中絶対にグランドを見ずファンの方だけを見てファンの反応から試合を読んでいたという伝説があるらしい(笑)
最後まで読んでいただきありがとうございました。
228. 入学式!!!
入学式!!!!!
ついに大学生活が始まる!!!
226. クローズアップ・「1950年金閣寺放火事件〜事件取材者はまさかのあの人だった…〜」 part22
皆さんはこの事件しってますか?
金閣寺放火事件(1950年)
あの金閣寺が唯一焼失してしまったこの事件。
結果的に精神的に病んでいた部分があった僧侶が勢いの余りに金閣寺に火をつけてしまったこの事件、詳しく知りたい人は以下を↓↓↓
この「金閣寺を燃やす」ということは皆さんもご存知の通り、三島由紀夫が書いた「金閣寺」で有名ですよね。そして、その金閣寺はこの事件をモチーフにしているそうです。
しかし、この事件には意外な事実があります。
なんと、新聞記者・福田定一(後の作家・司馬遼太郎)は、率先してこの事件の取材をしていたのです。
まだ歴史小説家になる前の司馬遼太郎さんが関わっていたなんて、驚きでした。