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214. クローズアップ・「篤姫」 part21 (再掲)

(2020年10月10日作成)

 

 

83. 好きな歴史上人物 part9 (篤姫) (2020年6月14日投稿)

 

 

多分今まで僕が一番誤解していた人物の一人ですね。

年始から見て先日見終えたばかりの大河ドラマ篤姫」。一部脚色はあるものの、流石の主演宮崎あおいの演技力に圧倒され、ホームドラマチックながら感情移入してしまい、感動しました(そして堺雅人高橋英樹松坂慶子の演技を見てこれがプロの演技かと驚いてしまいました)。

 

視聴率

初回が一番低い(最近の大河ドラマはこの最低の数字も超えてません笑)ので成り上がり系の作品だったのでしょう。

今回はその大河ドラマを見終えた後、史実として具体的に篤姫とはどのような人物なのかを検索しました。それをもとに話していきたいと思います。長いですが最後までお付き合いして下さい。

 

 

分家の娘から島津斉彬の娘へと

島津斉彬は、子供にあまり恵まれず何人かなくなっています。だから男子を養子に向かいいれるのかと思いきや、なんと嫁ぎ先としての娘がほしかったそうです(当時、見台所になってもらうなんて恐らく考えてなかったはず)。

そこで分家の今泉島津家の娘である於一(後の篤姫)を斉彬の娘として養子にさせます。

 

その後起きたことが12大将軍徳川家慶の死去。内からうつけと噂されていた家定公が13代将軍となります。そこで、幕政改革を目指していた島津斉彬は将軍の見台所として於一についてもらい、薩摩藩の地位をあげようとしました。

 

 

郁姫の先例があるが、やはり薩摩は外様大名。さらに、於一は島津の分家出身。そのためにはかなりの苦難がありました。

 

 

しかしそれでも斉彬は諦めませんでした。養育係として幾島を呼び、於一を篤姫として厳しく教育しました。

 

自分が必ずしも望んで入ったわけでもない島津宗家。そして、勝手に嫁入り先を決められ厳しくしつけられる。

 

この時点でかなりのつらさがあったことでしょう篤姫。しかし、それは序章に過ぎませんでした......

 

 

江戸へ

遂に篤姫が江戸に行くときが来ました。(大河ドラマでは行く直前実家族に会い、お別れしました)

決して自分で決めたわけではない道、未知数のところにいかなければならない不安。それは大いにあったことでしょう。

 

そして、船でとりあえず薩摩から京に行くことになり、慣れ親しんだ薩摩とお別れになります。そしてそれは篤姫にとって最期の薩摩となりました。(大河ドラマでも嫌いな人に誓う約束は果たさないと笑われものになるといい、嫌いな幾島だからこそ薩摩で涙を流すのはこれが最後だといい放ちました)

 

当時の篤姫は20前と早すぎる故郷とのお別れ、そして結果的に二度と踏むことのない薩摩の土。自分で決めたわけではない道なのにも関わらず、それを受けいれ乗り越えようとする姿に感心を抱きつつもこのような状況に到底自分だったら精神的に来てしまうでしょうね...

 

 

薩摩藩邸にて

斉彬の参勤交代よりも早く江戸についた篤姫。しかし、そこで待っていたのは分家出身である自分の存在を受け入れてくれない、義母らによる冷たい目線でした。(大河ドラマでは初対面なのに、仕切りをおいたり[結果的にはアトピーにかかったので隠していた設定だが、真相はよくわかりません(笑)]、見台所の件を最初から諦め見下していた)

 

まぁ、そんな状況で苦労していた篤姫でしたが、そこに斉彬が到着。いよいよ本格的に嫁入りの件を本格的に開始します。義母はいやいやにも準備に手伝います(笑)。

表でも、老中阿部の計らいにより13代将軍家定の承認を得て、順調に進んでおりました。(井伊直弼らの反対はあったが、一橋家を味方につけた結果排除に成功)

 

 

安政の大地震

嫁入りの支度として物を揃える上で、斉彬が任せた人が下級武士出身のあの西郷隆盛(当時は斉彬のお庭役として活躍)。西郷隆盛は準備に苦労しつつも、着物などをなんとか揃えました。

 

しかし、そこで起こったのが、安政の大地震。高輪にあった薩摩藩邸は崩壊。それとともに折角揃えた上品な品々も買い直し、そしてさらに嫁入りの件も一旦白色に、戻ってしまいました。

 

 

しかし、それでもやはり老中阿部により結局は嫁入りの件が再び決定。西郷隆盛もなんとか品々を揃えました。そしてとうとう嫁入りの支度が整ったのです。

 

 

そして、この時の篤姫西郷隆盛の接点が後々無血開城の時大いに役に立ち、結果的には徳川家存続の基盤となったのです。

 

 

大奥入り

遂に大奥入り。温かく向かい入れられたと思いきや、身分差別からなかなかの冷たい目線だったと言います。

 

そして、斉彬から言い渡されたのが、将軍に次期将軍を紀州藩徳川家茂ではなく、一橋の慶喜にすることまたは、子供を生むことでした。

 

所謂紀州派と一橋派ですが、大奥は根っこの水戸嫌い。一橋派の大奥は篤姫と幾島除いて誰もいなかったのです。

 

さらに、嫁入りまでなんと夫となる将軍家定公に会うことを禁じられていたのです(慣習により)。つまり、夫がどんな人か全く知らないまま儀式を行うことになっていたのです。

 

 

家定公の妻として

そして、儀式があり、それも無事終わりました。当時の慣習として将軍と妻が対面するときは所謂お当たりと呼ばれる、将軍が大奥まで来てそこで寝るときのみです。つまり、篤姫の使命を果たすにはそこしかなかったのです(いろいろな意味で(笑))。

 

 

家定が、発達障害やうつけ等といろいろ噂されてますが、真相はよくわからないので飛ばします。いずれにせよ家定は変わり者であったのは間違いなく、篤姫はその精神的な支えとして将軍の信頼を獲得していきます。

 

 

夫婦仲睦まじ

徐々に将軍家定公の信頼を得た篤姫。影での、支え役としてさらに篤姫は活躍します。

 

しかし、そこで問題だったのが次期将軍問題。時が経つにつれて、政略結婚から普通の夫婦関係となっていた家定と篤姫。正直、篤姫にとってこの問題ははっきりいって邪魔でしたでしょう。だが、幾島の働きにより遂に篤姫も動き出します。そのときの感じはどれが正しいのかわからないので、大河ドラマの方を見てください(笑)。正直者としての篤姫の難しい立場が上手く描かれています。

 

 

二つの遺言

さて、前半のクライマックス。夫婦仲睦まじい感じであった家定と篤姫でした。その篤姫にあまりにも辛すぎる出来事が立て続けに起きます。

 

 

それは義父島津斉彬の死と夫徳川家定の死です。(この二人はわずか10日間でなくなってしまい、毒殺等の人為的殺人も否定はされていません)

 

 

先に亡くなったのは島津斉彬。これは篤姫だけではなく、老中阿部の死に続いていましたので、一橋派の衰退に大きな影響を与えました。義理の父でありながらも、ここまで育ててくれた感謝はありつつも、結局何もできなかった篤姫の心情はさぞかし辛いでしょう。(大河ドラマでは死去直前に書いてあった斉彬の篤姫宛の手紙には、今後薩摩と徳川が戦うことを予見しつつ、篤姫を徳川または薩摩の人間として生きるかは自分で決めろと書いてありました)

斉彬の死は大きく、西郷隆盛の今後を大きく決める出来事にもなってしまったのです。

 

 

その10日後。将軍家定が亡くなります。しかし、篤姫がその事を聞いたのはなんと一ヶ月後。(大河ドラマでは大見台所の策略により、篤姫は家定が病気で倒れていることさえ知らなかったという)

 

こりゃ、怒りますわ、そして辛いですわ。一気に大事な人二人なくすんでもん。これは計りえない辛さがあります。(大河ドラマではこれプラスアルファ宮崎あおいの演技があるので、涙もろくなったことは何回かありますが、珍しく泣いてしまいました...)

一月知らせないのは流石にいくらなんでも...。

 

 

将軍の母

斉彬の死によって衰えた一橋派。代わりに出てきたのは紀州派の井伊直弼。13代将軍家定公が生前次期将軍を紀州藩徳川家茂にしたことで14代将軍は家茂となりました。そして篤姫は天章院と名乗りました。そして大御台所となり、将軍の後見人となりました。

 

しかし、それは表方では形状。実質幕府は井伊直弼一任状態となっていました。

 

 

安政の大獄

まぁね、大老になった井伊直弼はまずは強い幕府を戻すため邪魔者を排除しようとしました。それが世に言う安政の大獄。ここで多くの人が処罰を受けました。まぁ、恐怖政治を目指したわけですね。

 

 

桜田門外の変

その安政の大獄により、結果的に人々の不満を高まらせることとなってしまい、そこで起こったのが井伊直弼暗殺。世に言う桜田門外の変

 

これにより幕府の求心力が急激に衰えてしまいました。まぁ、そして討幕の勢いが盛んになるのです。

 

篤姫は、その一連の出来事を大奥というただ裏側でしか見ることしかできませんでした。

 

 

宿敵和宮

幕府と朝廷の関係をより一層高めるため出された案が、14代将軍家茂の嫁として朝廷出身の和宮との政略結婚でした。当時完全攘夷派だった朝廷の暴走を押さえようと幕府側が考えた策でした。

 

 

しかし、朝廷出身の和宮に対して薩摩分家出身の篤姫。一般的な嫁姑関係を超えてますね(笑)。実際この二人は打ち解けるのにかなりの時間を要したようです。(大河ドラマでは篤姫宮崎あおい和宮堀北真希が演じたわけですが、なんか一部の情報によるとあまり実際この二人の関係はよくはないらしい(笑)なんてね......)

 

 

薩摩の不穏な動き

プチ辛いところ。

斉彬の死後藩主となった弟島津久光は、1000人と大量の武器を持って、上京そして江戸へと。まさかの武力で薩摩の思うようにさせようとした久光。その久光の行動により、何よりも被害を受けたのが、篤姫でした。

薩摩出身そして将軍に意見を対等に言える立場でもある大見台所。その二つを乱用して影で薩摩と繋がっているのではないか?と疑われてしまいました。

 

篤姫の辛すぎる立場。一度薩摩を捨てたのに疑われる立場。決してそうしたくてしたわけでもない、ただ辛すぎる立場。しかも将軍が家茂になった後、長らく精神的支えとなっていた幾島はもういない。ただ孤独感に満ちるだけでした。

(ちなみにこの時の宮崎あおいの演技はえぐいです。感情移入半端ない......)

 

 

15代将軍徳川慶喜

なかなか攘夷を実行しない幕府に苛立ちを感じた朝廷は、将軍家茂自ら京に来て事情を説明するよう求めました。

そして家茂は京に行ったわけですが、なんとそこで病になり、二十歳にしてなくなってしまいます。早すぎる(将軍職六年なので14歳から将軍だったのか......)。

 

 

そこで次期将軍についたのがあの一橋派の要でもあった慶喜でした。

 

 

長州征伐当りは省略
......

 

 

大政奉還

さて大政奉還。まぁ、これは軽く。坂本龍馬小松帯刀等の活躍により、徳川慶喜は遂に大政奉還を決定。ここにて江戸幕府は長い歴史をもってなくなります。(結果、徳川慶喜は将軍の時、一回も江戸城に入ったことのない異例の将軍となった)

 

 

戊辰戦争開始!

薩長連合軍が挙兵し、幕府軍がそれに向かい討つことになりました。世に言う、鳥羽伏見の戦いですね。(これが最後に行われた京都近辺の戦い)

まぁ、この戦いで薩摩との差をしみじみと感じた慶喜は、まさかの逃走。江戸城に逃げ込みます。多分恐らくここでもう諦めていたのでは?

 

 

ここら辺は篤姫の出番あまりないですね(笑)

まぁここからが味噌なんですけどね。

 

 

無血開城

さて、クライマックス。

ここからは大河ドラマに沿った感じで書きます。

斉彬の死後、島流しを経て戻ってきた西郷隆盛は以前とは違いました。完全に討幕となり、例え大政奉還を行っても潰さなければならないという考えでした(ある意味白旗あげている人に銃を向けることですね)。

そして鳥羽伏見の後、着々と兵を江戸へと進めていました。

 

なんとしてでも江戸総攻めを止めたい篤姫は同じ薩摩の人という共通点を使って手紙を書きます。しかし、難航。

 

ということで篤姫は信頼していた勝海舟を呼び、江戸総攻めを中止させるよう命令します。

 

そこで考えた勝海舟は、京都から幾島を呼び西郷隆盛とあわせ、心情変化を誘導する狙いでした。

篤姫は幾島と久しぶりに会える喜びを抱きつつも、全てを幾島に頼み祈りました。

 

全てを意思を受け取った幾島は西郷隆盛と面会。

そのまんまを伝えた幾島でしたが、西郷隆盛からの返事はNOでした。

怒った幾島は、これまでいかに篤姫が苦しみそして辛かったかを説明し、これからもさらに苦しめるつもりかと怒号を発しましたが、西郷隆盛は、

「それでもやらんとでごわす!」

小澤さん(西郷隆盛役)のこの言葉忘れられません。涙を流しながらも発した言葉。大きなことを達成するには何かを犠牲にしなければならない。そんな意思を感じられました。

 

流石の幾島もそこまで言われたら閉口。面会は失敗に終わってしまいます。

その結果を聞いた篤姫でしたが、それでも諦めませんでした。あの自分が大奥に入るときの準備をしていた、あの西郷隆盛の優しさそして斉彬に仕えていた頃のあの生き生きとした感じは必ずあると信じ、最後の手段を出しました。

 

それは、その西郷隆盛が尊敬していた島津斉彬が生前、遺書みたいな形で篤姫に送った手紙を西郷隆盛にも見せることでした。

「いろいろと迷惑をかけた。勝手に城にめしだし、勝手に見台所にさせ、無理難題な使命を言い渡し本当にすまなかった。そして、いつか薩摩と徳川がぶつかるときが来るだろう。その時は己の信ずる道を貫け」

この手紙を勝海舟に託し、勝海舟は正真正銘最後の面会へと向かいました。

 

流石の西郷隆盛もこの手紙をよんだら涙腺崩壊。尊敬していた斉彬公の遺言とも言えるメッセージはやはり西郷を動かしました。

 

 

結果は成功しました。そして西郷隆盛は最後に篤姫にしてやられたと言いました。

同じ薩摩ということで自分の立場を上手く利用し、西郷を感情を動かし、無血開城に大きく貢献した篤姫の活躍は計り知れません。

 

 

友よ散って

大河ドラマでは幼なじみ扱いだった小松帯刀がやはり足を痛めた影響からなんと34歳でなくなり、西郷隆盛は日本最後の内戦西南戦争で戦死、大久保利通は紀尾井坂(現在の永田町)で暗殺され、精神的支えだった幾島は1870年になくなりっと次々と周りの人がなくなっていきました。

 

そして、1883年篤姫脳卒中で倒れそのまま49歳にして亡くなりました。

 

 

篤姫の活躍による後世への影響

篤姫の一番の功績は家定に嫁いだことではありません。

無血開城に貢献したことです。そのおかげで江戸は火の海にならず、首都が栄えたまま、明治時代における日本の近代化は何年も早くなったことでしょう。それも外国に攻められることなく。

そう意味では徳川慶喜と同じくらいの凄さがあると思います。

 

今までこのようなこと知りませんでした。影で支え、私情を捨ててまで日本を守ろうとした。そして、最善のルートで日本が発展できた、いわば日本を救ったとも言えるでしょう。

 

篤姫恐るべし!

 

そして、それを篤姫になりきって伝えた宮崎あおいさん

 

 

ハンパねぇ

 

役者の理想とするその人になり切ることができていた作品でした。これからも大河ドラマ出てくれないかなぁ(逆に篤姫のイメージ壊れるか笑)

 

 

最後に

島津家、鎌倉時代から薩摩を治めていた伝統ある家柄です。戦国時代には何度も窮地はありました。秀吉の九州攻め、関ヶ原での中央強行突破作戦。死ぬ気で守り抜いた当時の島津四兄弟。その人達が作ったとも言える九州男児の魂は時代を超えてそして性別を超えて伝えられました。その結果が明治三傑や島津斉彬篤姫でしょう。

 

本当に感動しまくった人物でした。ありがとうございました。

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。良かったら読者になって下さい。よろしくお願いします。

 

 

では……