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大学一年生ブログ初心者です。基本的に自分の趣味について語っています!是非見て下さい!

172. クローズアップ・「諸葛亮孔明」 part19 (再掲)

(2020年9月17日作成)

 

 

52. 好きな歴史上人物 part4 (諸葛亮孔明) (2020年2月29日投稿)

このシリーズ第三弾。三人目は諸葛亮孔明。筆者自身、三国志が大の大好きです(まぁ好きになったきっかけはやはり横山さんの三国志の漫画ですね笑)。

 

 

諸葛亮孔明。この人はあまりにも有名です。なので、今回は個人的にここが凄い!だというところを話していきたいと思います。なので、諸葛亮孔明の人生歴を知りたい人は下のボタンをクリック!↓

諸葛亮 - Wikipedia

 

 

孔明を家臣にしたい劉備は、自ら孔明の家に赴き孔明に会おうとしました。しかし、孔明は会いませんでした。二回目、劉備が赴いた時も会いませんでした。三回目にして孔明劉備と顔を会わせました。

なぜこんなことしたのか?

それは、自分の器量を測るためでした。そう、どれだけ自分が必要とされているかの確認のためでした。(もちろん三回目会った時は劉備に顔をあわせなかったことについて謝罪したらしい…)

 

 

まぁ現代社会でこんなことありえないですよね。つまり、社長自ら新入社員の家に訪れたが、三回目の訪問にしてようやく会えた。クビになるのでは笑。

逆に劉備はそれほどまでに軍師を求めていたということになり、欲しい人がいたら自分の身分関係なく振る舞える人。凄いですね(語彙力)。

 

 

  • 天下三分の計

時は同じく、劉備孔明が対面した頃、孔明はすでに後漢の行く末(滅亡すること)を予言し、天下を三つに分けて世を治めるべきだと言いました。結果的に数十年後そのような状態になるわけでありますが、先を見抜く力は抜群だったようです。

 

 

三国志を語る上で絶対に外せないこの戦い。85万の魏軍に対し反旗したのが、5万の呉・蜀連合軍。圧倒的魏軍の有利だと思われていました。しかし、孔明は昔からこの地の天気を記録しており、次のことを理解していました。

「この地は常に北西の風が吹いているが、月に一回東南の風が吹く」

へぇー、そんなことが役に立つのかと思うかもしれませんが、これが一番の肝でした。孔明は事前に魏軍側に裏切り者として送り込んだスパイに魏軍の船同士の戦列を整えるために鎖で船同士を繋ぐように助言させました。(魏軍は水上戦に慣れていないため、これに慣れているこのスパイの意見をまんまと受け入れてしまった)そして、食料確保のために各船に食料をおきました。

敵軍の支度が整ったのを見た孔明は東南の風が吹くのを待ちました。

そしてついにその日が来ました。孔明は自軍の無人船に火をつけ、そのまま魏軍の船に体当たりしました。そして食料が燃え船が炎上。そして東南の風により鎖をまたいで次々と魏軍の船が炎上。これに慌てた曹操は急いで退却しましたが、その退路には関羽がいました。ここで関羽曹操を斬ってこの戦いにおける完全勝利を掴むつもりでした。しかし、関羽は以前仕えていた曹操の首をついにはねることができませんでした。

これを聞いた孔明は激怒し、関羽を軍命に反したとし、罰として処刑しようとしましたが、劉備がこれを阻止。

 

 

この戦いにより天下は三分に分かれ、いよいよ三国時代が始まったのでした。

 

 

  • 七転八起

南方遠征の際、敵の大将(ごめんなさい、名前忘れました。何しろ漫画読んだのが数年前だからねぇ)をなんとしてでも家臣にしようと思った孔明、何をしたか?

そう、諦めて降参するまで、戦わせたのです。つまり、七回降参したが、八回挙兵したのです。(最初の挙兵も含んでいる)まぁ七回目の降参で諦めがついたのか敵の大将はついに孔明軍に投降し、正式に孔明の家臣となったのでした。

まぁ八回連続で勝つところもすごいんだけど…孔明さん…

 

 

これは有名ですよね。

山に陣を張るなと散々孔明から要請を受けた馬謖でしたが、命令無視。山に陣を置きました。しかし、敵軍にまんまと包囲されました。なんとか馬謖を包囲から解放しましたが、これが孔明の激怒をかいなんと馬謖を軍命令を背いたとして、死刑を言い渡しました。

まぁ、将来を期待されていた馬謖であっても軍命に逆らったとして死刑にした孔明。例えどんな人でも法律犯してはならない。今では当たり前のことですが、それを伝えたかったのかもしれません。

 

 

  • 空城の計

これは孔明司馬懿仲達が対面した時(仲達の方が軍勢的に圧倒的に有利でした)、孔明はあえて城の門を開けるように味方に言い渡しました。これを見てそして城内に何一つ音がしないのを知った仲達は、これは何か孔明の策略ではないかと疑い、兵を引き上げてしまいました。しかし、後からただ門を開けていただけだと知った仲達はとても悔しんだと言われています。孔明曰くこれは空城の計というそうです。

裏の裏をかく孔明。なんで人だ、驚愕。

 

 

  • 出師の表

劉備の死後二代目蜀の皇帝となった劉禅。しかし、劉禅の怠慢さを孔明は直そうと直訴したのが、出師の表。

自分の上司に意見を言うなんて……(それほど孔明に権力が集中していたのかもしれないが…)

 

 

孔明最期の戦い。「死せる孔明生ける仲達走らす」で有名なこの五丈原の戦い。過労で病になっていた孔明は自分に死期が近づいていることを認識し、自分の死後どうするのかというのを考えていました。

 

まずは仲達から上手く退却する方法

絶対に孔明の死を公表しないこと

撤退しながらも少し反撃して、敵に孔明の仕業だと思わせること

 

これにより、蜀はほとんど死者を出さずに退却できたとか…

 

  • 次にその後の政治体制

暴走気味だった魏延を殺す(国家を守るために)こと

代わりとして自分の息子や楊儀を頼るようにすること

 

以上が孔明の遺書とも言うべき最期の伝えでした。

 

 

以上が孔明の逸話。こうしてみると改めて孔明の偉大さ、賢さに驚き。

また孔明は新しい武器も開発しており、弓矢を連続して打てるように三連射式弓矢の開発などもしました。

現在、孔明の子孫は三千人ほどいると言われていますが、孔明の意思はしっかりと伝えられているのでしょうか?

今回はここまでとします。

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。良かったら読者になって下さい。よろしくお願いします。

 

 

では……