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高校三年生ブログ初心者です。基本的に自分の趣味について語っています!是非見て下さい!

95. 好きな歴史上人物 part10 (島津義弘)

まさかの今日二本目!意識高いっすねぇ笑。(勉強しろや)

 

元祖九州男児ともいうべき人物。

今回はその九州魂が現れた出来事を具体的に述べていきたいと思います。

 

 

耳川の戦い

この戦いは以前紹介しました(41. 好きな歴史上人物 part3 (立花宗茂) - SefiaU8の日記)。

まぁ、大友軍と島津軍の死闘が繰り広げられたこの戦い。

この戦いによって名をあげたのが、この島津義弘立花宗茂でした。

 

 

九州征伐

1587年、豊臣秀吉は天下統一の為九州併合へと動き出しました。根白坂の戦いで義弘は抜刀して敵陣に切り込んでいくという奮戦をしました。

 

結果的には、島津側の降伏で終わったものの、これにより義弘の名は日本中へと広まりました。

 

 

朝鮮出兵

文禄慶長の役島津義弘は朝鮮へと出兵。

実態は皆さん知っての通り酷い有様で、命からがら帰ってくる有様でした。

 

 

関ヶ原の戦い

さぁ、メインです。

1600年上杉景勝会津での蜂起をきっかけに始まり、伏見城攻めとなり、始まった石田三成徳川家康の対峙。

9月15日(10月21日)、参陣こそしたものの、島津軍は戦場で兵を動かそうとはしなかった(一説にはこの時の島津隊は3,000余で、松平・井伊隊と交戦していたとする説もある)。三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請したが、義弘や甥の島津豊久は無礼であると激怒して追い返し、もはや完全に戦う気を失ったともされている。

関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。その結果、この時点で300人(1,000人という説もあり)まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。その際、旗指物、合印などを捨てて決死の覚悟を決意した。

島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。このとき正則は死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが、福島正之は追撃して豊久と激戦を繰り広げた。その後、島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。この撤退劇に対して井伊直政本多忠勝松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった直政は重傷を負い忠吉も負傷した。 しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。

 

 

島津の退き口

このとき島津軍は捨て奸と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。その結果、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦もあり、井伊直政松平忠吉の負傷によって東軍の追撃の速度が緩んだことや、家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。義弘主従は、大和三輪山平等寺に逃げ込んで11月28日まで70日間滞在し無事帰国した。無一文であった義弘主従は平等寺社侶たちからの援助によって難波の港より薩摩へと帰還する。その際に義弘は摂津国住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に帰還したという。生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。

 

 

家康に降伏

その後、薩摩に帰った義弘だったが、周辺諸国は全て徳川方。完全に四面楚歌の状態だった島津。そこで出た結論が家康に降伏することだった。

普通あんな強行突破したのにも関わらず降伏なんて有り得ない。

しかし、家康は違った。あれだけ四面楚歌の状態から死に物狂いで中央強行突破した島津を評価したのだ。そして、仲介に入ったのがあの井伊直政だった。

 

歴史って不思議ですね笑。

 

 

島津は永遠なり

家康に降伏した島津。しかし、決して徳川に忠誠を誓ったわけではない。いつか再び島津の名が世間に知れ渡るのを待つために島津存続の道を選んだのだ。

 

そしてそれは現実となった。250年後、明治維新の源を作った三人衆、佐久間象山吉田松陰島津斉彬

あれ?島津の名が…

 

九州男児はきちんと250年後へと伝えられ、そして今でも継続されています。

 

だから!

 

薩摩は一目置かれるのです。例え都から遠くても…

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

次回は6000人のユダヤ人を救った日本人外交官、杉原千畝です。お楽しみに!

 

 

では……